飲食店・レストラン“トレンド”を配信するフードビジネスニュースサイト「フードスタジアム東北」

インタビュー

図1_R

リレーインタビュー 「飲食の侍たち」居酒屋ちょーちょ 店主 長尾 一寿

飲食の侍、1人目の八尋さんからのバトンを受け取ったのは、「居酒屋ちょーちょ」の店主、長尾さん。長尾さんの作る空気はスタッフも常連客も飲食仲間も、お酒が入っていないのに酔ってしまいそうなほど心地がいい。
私自身、このインタビューをしている間に彼の魅力に惹きこまれ、ついついインタビュー時間を大幅にオーバーしてしまった。
嫌な顔何一つせず、仕事上がりにお茶を飲みながらなんと10時間。彼の人柄に救われた会となりました。

「居酒屋ちょーちょ」は知る人ぞ知る、大繁盛店。お客様はもとより、全国各地から同業の方々が視察に来られては感嘆の声をあげるお店だ。
小手先ではない、長尾さんの根本に根付く「飲食愛」がお店を、スタッフを、お客様を、育てている。
お店のドアを開ける前から漂う「いい夜になりそう」な空気感。ドアを開けた瞬間に全身で感じる「ようこそ」感。
飲食店ってこんなにキラキラ、イキイキしてたんだよね、と理屈をこねる間もなく納得してしまえるお店。

今回は、そんなお店をつくりあげた長尾さんの全てをさらけ出していただきました。
書ききれないことや書いちゃいけないことは隠していますが、彼の人懐っこさと溢れる自信と強い信念が少しでも伝わりますように。
久々に電流走るくらいの面白い話を聞けました。
それでは、【飲食の侍、2人目】どうぞ最後までお読みください。

【飲食の侍、2人目。】

プロフィール
11269492_603058366464444_989949718_n長尾 一寿(ながお かずひさ)
1982年7月11日、青森県平川市生まれ
居酒屋ちょーちょ 店主
以前の職場:株式会社楽コーポレーション

運営店舗
居酒屋ちょーちょ →食べログ

1、飲食を始めたきっかけ
高校2年生のとき、地元の行きつけの古着屋さんが自由で格好よく見えたことがきっかけで最初はアパレル業界で独立したいと考えていました。「来てくれたお客様のために温かいココアを出すようなお店」を漠然と夢に見ていたんです。
両親は反対していたのですが、アパレルをやるならまずは東京を知らないといけないと思い反対を押し切ってひとまず家を出ました。そしたら東京のアパレルは、想像と違い冷たかったんですよね。そんな折、たまたま、代官山の「モンスーンカフェ」に出会ってしまったんです。当時の青森にはこんなお店はなかったし、何から何まで初めてづくしで感動しました。温かい接客、見たことのないエスニック料理…自分にとっては革命的で、非日常に吸い込まれていく感覚はまるでディズニーランドのように思えました。
おのずと洋服にかけるお金から、飲食にかけるお金が増えていき、ここで働きたいという想いが強くなっていきました。

「将来は独立を考えています」と面接で言いました。「若いしフリーターなのでどんなシフトでも構いません」とも言いました。他の飲食店よりスタートの時給は安かったように覚えていますが、その頃の自分は根拠のない自信があって、すぐに自分にお客様がつくと思っていたんです。これでようやく自分の考えていたような接客ができると。ところが、僕は仕事ができなかったんです。ホスピタリティ精神だけが先走って技術が伴わなかった。2,3回シフトインして、周りに要領が悪いことに気づかれて、とりあえずめちゃくちゃ怒られていました。そこで焦ったわけです。「このままだと居場所がなくなる」と。そこから、「すごい接客」を目指すことよりもまずは「オペレーションをこなすこと」を徹底しました。
この頃の僕は怒られるのが嫌で、時給が出ない時間を狙ってハンディの勉強をしたり食材の暗記をしたりして自分自身ができない部分をリカバーしていました。それがモチベーションだったんです。できるようになって先輩たちに褒められたいと頑張っていました。3ヶ月くらいでようやく仕事ができるようになり、先輩たちとも絆ができ始めました。怒られた中でも印象的だったのが「掛け算って知ってる?」と言われたこと。棚卸の最中にお皿を一枚一枚数えていたらそう怒ってくれた先輩がいて、ハッとしたんです。「仕事の効率を上げるには頭を使わなきゃダメなんだ」と気づいた瞬間でした。自分の色を少しずつ出せるようになっていって楽しい時間でした。

その後、出会ったのが「汁べゑ」吉祥寺店です。
人生第2回目の大衝撃でした。それまでの自分はスタッフ一同声を揃えて「いらっしゃいませ」と言うことが当たり前だと思っていたのに、スタッフがそれぞれ個人個人の好きな言葉でお客様を歓迎する環境がそこにありました。かしこまらない接客、親しみのある料理、その美味しさ。一瞬で恋に落ちました。
そこからは、「ここで絶対に働く」としか考えなかったです。ただ、「モンスーンカフェ」もやっぱり好きでしたので引き継ぎは心をこめてやりました。実はその時「汁べゑ」はバイトの募集はしていなかったので、電話を掛けた時点で1度断られています。ただ、どうしても働きたい思いがあって数日後もう一回電話をかけたところ、面接してもらえることとなり採用が決まりました。「汁べゑ」ではすぐに自分の色を出せるようになり、バイトして半年で社員になることを決めました。「汁べゑ」の風土を学びたかったのです。たった4ヶ月目のバイトに「目の前にあるカウンターはお前の店だからね」と責任あるポジションを任せてくれ、「カウンターはステージだよ」と、盛り付けや飾りつけなど料理の技術がなくてもスポットライトが当たる喜びを毎日体感させてくれました。あまりに楽しくてあと半年はこの環境でいたいと思い、そのままバイトで1年間過ごしてしまいました。ただ、この1年が僕の社員人生を支えてくれる人生で一番楽しかった時期だったのは確かです。

社員になってからはめまぐるしい日々でした。
最初の2年間は八王子店で目の前の業務、料理に追われる日々でした。買い出しから開店準備、賄いの仕込みまで全て僕の仕事でしたから「いつかはできるようになる」と思いながらもストレスを抱え毎日飲み歩く生活でした。「辞めたい、でも絶対辞めない」という葛藤の中、「飲食業は自分の天職だ」と信じ、言い聞かせていたんです。
その後、自分の恩師のいる渋谷へ配属され、ようやく料理をつくることが好きになりました。心にも余裕が出てきたことで将来を見据えてプラスイメージで仕事に取り組むことができるようになりました。その後、約半年で表参道店へ店長候補として移動することになったんです。そこからは面白いように料理をたくさん作りました。創作意欲もわき、後輩もでき、教えられる立場から教える立場になり、1年後認められて店長になりました。そこで会社の期待に応えて売上を上げることができました。自分の中にはルールがあって、そのルールをスタッフ全員で共有できる風土を作ったんです。

店長になって始めたことは、全席の伝票を把握することでした。
①おひとり様5,000円以内で必ず満足させること、
②名物の「お刺身盛り合わせ」を全員に食べてもらうこと、
をスタッフ全員と共有しました。「他店に比べて客単価が高い意味をしっかり考えよう」、「客単価5,000円以内で収めるようにお店側がコントロールしなくてはいけないんだ」と常に話して実行していました。
また、店長である自分が4番バッターにならないように気を付けました。
僕は、「ナンバー2のうちに4番バッターでホームランをいっぱい打つ、その力をもったうえで店長になったら送りバントを打てなければいけない」と考えています。これをナンバー2の子にいつも伝えて、お互いの役割を果たせる環境をつくっていきました。
いつも心にあるのは自分が衝撃を受けた吉祥寺店。あの空気感を自分でも作りたかったから、スタッフの子たちにはお客様とのコミュニケーションの取り方の入り口を教えました。たとえば宴会の幹事さんと仲良くなること。お見送りの時に「今日は幹事お疲れ様でした」とひと言添えたり、ご予約の電話対応のときに「美味しいお料理をつくってお待ちしていますね」と言うように徹底しました。お客様に愛されるお店づくりに必要なコミュニケーションのきっかけです。

そして僕は、3年越しで八王子店に戻りました。
新人時代の自分がやり残したことを回収して、自分の力で繁盛店に戻して最後の仕上げにしたかった。また、その頃すでに「将来は東北に戻って独立しよう」と考えていたので、「楽コーポレーション」の商売と地方都市の繁盛店づくりを同時に勉強できる機会だとも考えました。自分が会社にいた証を後輩の育成にかけたのです。

2011年春に、会社を辞めて仙台で独立する予定でした。僕の出身は青森、奥さんの出身は山形で、どちらも車社会で自分の今まで体得してきたスタイルが当てはまらない土地なので、地元に近くて勉強してきたことを活かせる土地である仙台を選びました。
しかしその矢先に震災が起き、会社を退職するのを延期せざるを得ませんでした。仙台の現状を見ようと4月に入ってから見に来たんです。そしたら「周平」さんが営業していて、お客様は満席でみなさん笑っていたんです。その時「少しでも笑顔をつくれる場所を提供したい、自分にもそれができる」とシンプルに想ったんです。震災があったからこそ、「三陸の魚を扱うお店をやる」とコンセプトも決まりその年の7月、「楽コーポレーション」を退職し、11月に仙台に引っ越しました。

開店は2012年9月です。
復興バブルに乗っかったお店だと勘違いされないように自分のお店の価値をどう伝えるかをずっと考えていました。青森出身であること、三陸の魚の美味しさをちゃんと伝えられる店であること、どんな年代・どんなニーズを持った人にも「ちょうどいい」店であることを念頭に組み立てました。
接客等に関してはやはり自分の中で編み出した方法を徹底することでスタッフが愛されやすい環境をつくりました。そもそも大繁盛店を狙っていたわけではないんです。自分自身の根本に、「人・酒・肴のバランスのとれたお店にしたい」という考えがあって、人間力や商品力だけに頼りすぎない店づくりをしようという戦略を立てていました。場所も繁華街を外したのは「裏路地にある色っぽいお店」になりたかったからです。
「飲食を始めたきっかけ」というよりは、「もはや天職でそれ以外はない」と思っています。

2、影響を受けた人
宇野隆史社長です。僕は「オヤジ」と呼んでいます。
「汁べゑ」が「楽コーポレーション」だとは知らずに面接し、入社して初めてお会いしました。技術以外の大切なこと全てを教わりました。10年間、会社にいさせてもらえて、一生の仲間ができたことも独立させてくれたことも、すべてに感謝しています。
商売は簡単で才能なんていらなくて、飲食は楽しい職業なんだと本当に教えてもらえました。
※参考
宇野隆史(著)
「トマトが切れれば、メシ屋はできる 栓が抜ければ、飲み屋ができる」→Amazon
「笑う店には客来たる 楽しむ人には福が舞う」」→Amazon

3、飲食をやめたいと思ったことは?
ないです。
飲食が天職だと思っているので、他の何かをしている自分を想像できないです。

4、飲食をやっていて幸せを感じるときは?
お客様と従業員の満足度が両方とも比例して最高潮に持ち上がった時。
どっちか片方ではやっぱりだめで、両方ともグワッと上がった時は幸せを感じます。
お店の中が笑顔で溢れていい空気になっているときですね。

5、今後の野望は?
近い将来で言うと、飲食への想いを共有できる仲間(従業員)を増やしたいです。
オヤジが自分にしてくれたように、従業員を自信をもって巣立たせてあげることも考えたい。
遠い将来で言うと、いまと同じような「血が濃い」店を3店舗くらいやって「仙台にこの店あり」というレベルまで行きたい。思い残すことがなくなったら3店舗すべて畳んで、週3回しか営業しないようなカウンター席だけの小さい居酒屋のオヤジになりたい。
そこに悩んでいる飲食店の若い人が相談に来たりしたらすごく嬉しい。
自分にとってのゴールは、ずっと居酒屋のオヤジでいること、です。

6、自分が目指す人間像は?
遠い将来やるかもしれない「小さな居酒屋のオヤジ」のイメージに近いのが高田純次。
テキトーな感じで、でも旨いごはんをつくって、下ネタも言うんだけど相談にも乗れるかっこいいオヤジになりたいです。

7、飲食を始めたころ(独立したころ)の自分へ声をかけるとしたら?
「さぼるなよ」かな。さぼらなかった未来に今の自分がいるので。
あとは「貯金しろよ」ですね。これに関しては奥さんに感謝です。オヤジにも、「えりちゃん(奥さん)をそばに置いておけばちょーさん(長尾さん)は大丈夫」と言われていました。

8、飲食業で大切なことは?
「愛され上手」であること、です。
料理上手より、愛され上手。愛され上手は怒られ上手、褒められ上手です。
相手を受け入れられる準備ができているということだと思います。

9、好きな本は?
実は漫画が大好きで、日々引用しています。
好きな順に、
①深夜食堂
②美味しんぼ
③バンビ~ノ!
④将太の寿司
⑤味いちもんめ
もっとありますが、飲食の漫画に限定するとこの順です。次点は「築地魚河岸三代目」です。大切なことがすごくわかりやすく書いてあります。

10、フードスタジアム東北に期待することは?
「好きな職業ランキング」に飲食業をランクインさせてほしい。

11、次にバトンを渡したい人は?
シマウマ酒店 我妻知惟さん →食べログ
8月に新店がOPENするそうなのですが、その店長になる飲食が大好きな27歳です。
自分も店長をやったのが27歳くらいだったし、その頃の自分と似ているな、と思う部分があります。
ただ…俺の方が飲食大好きですけどね。

12、読者へ一言
「もう飲食やめようかな」とか「こんなはずじゃなかったな」と、この業界から離れたくなっている人がいたらぜひ居酒屋ちょーちょに来てください。絶対にもう一度、飲食を好きにさせる自信があります。もし、もう一度好きになったら、僕たちの仲間になって飲食を目いっぱい楽しみましょう。


(取材=澤田てい子)

インタビュー一覧トップへ

Copyright © 2015 FOOD STADIUM TOHOKU INC. All Rights Reserved.