飲食店・レストラン“トレンド”を配信するフードビジネスニュースサイト「フードスタジアム東北」

インタビュー

リレーインタビュー「飲食の侍たち」 イル ピッツァイオーロ 店主 千葉壮彦

飲食の侍、3人目の我妻さんからバトンを受け取ったのは、10月1日に「イル・ピッツァイオーロ」をOPENさせる千葉壮彦さん。「世界3位のピザ職人」という情報に心が躍った。
ずっと行きたかった「PIZZARIA PADRINO DEL SHOZAN(勝山館)」を引っ張ってきた張本人とお会いすることができる喜びと、世界を見てきたその目には何が見えているのかという興味、彼の飲食持論を余すことなく聞いてみたいという欲求が止まらなくなっていた。私の技術で全てを聞くことはできないかもしれないと怖くもあったが、千葉さんにひと目お逢いしてその不安は払しょくされた。
現在工事中の堤町の店舗前。笑顔で出迎えてくれた千葉さんは、まさに自然体。穏やかで優しい空気をまといつつ、ちょっとした緊張感、フラットな姿勢。あまり他で感じたことのない雰囲気を持った方でした。作ろうと思って作れるわけではないその雰囲気は心地がよく、自然に会話の中でインタビューに入らせていただきました。

インタビュー当日は、真夏日。
北仙台駅から徒歩5分もかからない立地なのにそれでも汗だく。「買ったばかりなんです」と言って新品の扇風機を私に向けて回してくれました。4時間のインタビューで人となり全てを知ることはもちろん無理なのですが、彼が目に涙をためながら話してくれる姿を見て、彼の想いや心の優しさに一瞬触れた気がして胸が熱くなりました。
この大きな器の中にたくさんの想いが詰まっていて、その一かけらを今日私に見せてくれたのだと思うと、責任を持って彼の飲食人生を記事にしたいと改めて身が引き締まりました。
彼にとっては「必然」だったその人生は、きっとこれからの多くの飲食人のヒントにつながると確信しています。
【飲食の侍、4人目】どうぞ最後までお読みください。

【飲食の侍、4人目。】

プロフィール
11269492_603058366464444_989949718_n千葉壮彦(ちば たけひこ)
1974年7月23日生まれ 宮城県登米市出身
イル・ピッツァイオーロ (IL PIZZAIOLO)
10月1日OPEN!!
Lunch:11:30~14:30(l.o.14:00)
Dinner:18:00~21:30(l.o.21:00)
不定休
マルゲリータ1,000円~、マリナーラ800円~等
世界3位を獲得した本格的なピッツァを身近に愉しめます!
 →FB
以前の職場:PIZZARIA PADRINO DEL SHOZAN(勝山館)
 →HP

1、飲食を始めたきっかけ
自分はずっとふわふわしていました。
高校卒業して「キレイな恰好して、涼しいところにいたい」という単純な理由でアパレル関係に就職。成績もよかったし楽しかったのですが、周りのサポートありきで過ごしていたことに気付かず、20歳前にして「何かもっと違うことができるんじゃないか」という過信をするようになりました。今思えば何を言っているんだと思いますが、当時は田舎でそのまま生きていくことは格好良くない、と思っていたんですね。
そこで早々と転職、営業職に就いたのですがどうにも納得がいかない。成績はまぁまぁ、でも「いいこと」をしている実感がない、自分の仕事にプライドが持てない、そんな日々を過ごしていました。22歳の頃、初めて居酒屋でアルバイトを始めたんです。革命的でした。純粋に食事を提供して会話して喜んでもらえてお金まで払っていただけるその環境が、なんて健全で素晴らしい職業なのだろうと。それまでのホワイトカラーの仕事では感じられなかった充実感を味わうことができていました。しばらくすると、高校時代の友人が「ラーメン屋を始めるから一緒にやらないか」と声をかけてくれたんです。ラーメン屋は好調で1年後には2店舗目を開店することになり、自分は両店店長を兼任することになりました。布団を事務所に持参して、泊まり込みで準備を重ねていきました。すると翌日からスタッフも一緒になって泊まり込みしてくれるようになり、少ない人数ながらも順調に滑り出すことができました。もちろん、スタッフをずっと泊まらせるわけにはいきませんので、少しずつ帰すようにしていたのですが、自分自身は1日3時間睡眠で事務所に泊まる生活をしていました。家に帰る、という観念がなかったのかもしれません。すると案の定、体を壊してしまい、働けなくなったのです。病院に行くと過労で自律神経に支障をきたしているとのこと。安静にしていなくてはいけないのはわかっていたのですが、店のことがどうしても心配で家に帰る気にはならない。3日間ほど事務所で熱と戦いながら朦朧としていました。スタッフのみんなも顔を出してはお見舞いしてくれたのですが、そんな中、またふわふわした気持ちが出てきたんですね。「まだ何かできるんじゃないか」と。
「何か」はわかっていませんでした、ただ、「ラーメンじゃなく、イタリアンとかフレンチとかがいいかもしれない。響きが格好いい!」そんな単純な思い付きから、ラーメン店を辞める決意をしました。

1999年、自分が25歳の時、初めてピザの道に入りました。
当時は石窯を使って薪でピザを焼いてお店で食べる「ナポリピザ」の文化はあまり知られていませんでしたが、定禅寺通りの「ナプレ」にはそれがありました。目の前で生地を伸ばし具材を乗せて釜に入れる、数分で出来上がるそのピザの美味しさに感激しました。そこから2年間「ナプレ」で働きました。オーナーである香坂さんは、自由奔放で温かく好きなものにはとことんこだわる面白い方。楽しく仕事はしていたものの、実はピザを作ることは、一切させてもらえていませんでした。今思えば当然です。自分だってそんなふわふわした何の覚悟もない奴に大事なピザを任せたくなんてありませんから。
そして27歳、何もできていない自分にやっと気づき焦り始めたのです。「自分はもう若くない、仕事を変えたりなんかしていられない、この仕事で結果を出さないと将来なんてない!」という強迫観念に襲われました。
そこで焦った自分はピザの勉強をしにイタリアへ行く決意をしたのです。
とはいえ、お金は全くありませんでしたから、「ナプレ」を辞めて自動車工場で半年間お金のために働くことにしました。この期間があったことで今の自分は支えられています。お盆期間は工場が休みになるのですが、お金のために働いているのに休むのももったいないと誘われるがまま清掃の仕事を短期でやる機会がありました。そこには40代~50代の日雇い労働者の方々がいました。休憩時間、話す内容と言えば博打、キャバクラ、競馬の話ばかり。「一歩下がったらホームレスになってしまう。今自分は底辺にいるんだ。何としてでも這い上がらなくては。」と奮起しました。

そして半年後、初めてイタリアに渡ったのです。自分自身、初の海外でした。
1か月ほどたったある日、道を歩いていたらナポリ大学の日本語学部学科に通う人に声をかけられました。自分は勧められるがまま、知り合いのイタリア人の家に居候させてもらえることになりました。アルフレッドといって、今でも大事な友人です。彼に「ピザ職人になりたくてイタリアに来たのだ」と伝えると、アルバイトを探しに一緒に店を回ってくれたり、語学学校の手続きをしてくれたりと自分のためにいろいろ力を貸してくれました。イタリアに長く滞在するには学生ビザが必要だからと、もう一度日本で手続きをして帰ってくるという約束をし、自分はいったん日本へ帰国しました。本当はすぐにでもイタリアへ戻る予定だったのですが、帰国後3日で「ナプレ」の香坂さんの奥様の妊娠が発覚、ご恩返しと思いイタリアへ帰るタイミングをずらし1年間手伝いをすることに決めました。
そしてようやく28歳にしてイタリアへ再度訪れることができたのです。
最初は自分でお店を一軒一軒飛び込みしました。「日本からナポリピザの勉強をしに来ました、ここのお店で働かせてくれませんか。お金はいりません。」という言葉だけを暗記して回りました。断られる毎に辛くなり、1日で2,3件も歩けば精神的に参ってしまうような状態でした。
それでもやるしかないと気持ちを切り替えて歩くこと3日間、20軒目くらいで「明日来てもいいよ」というお店に出会えました。そこで雑用をしながら仕事の仕方、必要な単語を覚えていきました。営業後は余った生地でピザを焼かせてもらう基本練習を繰り返す日々。1か月半ほど過ごすうちに転機は訪れました。
アルフレッドから「知人がピザ屋をやるから来ないか」と誘いを受けたのです。しかもアルフレッドは自分をピザ職人として紹介し、1か月4万円ではありましたがお給料までもらえる話をしてくれていました。そのお店は「Fratelli La Bufala(フラテッリ ラ ブッファラ)」というFC展開をしているお店で、自分は単身だったので新店OPENの立ち上げ要員として雇っていただけることになりました。
イタリアにはフリーのピザ職人がいて、1人1人個別契約をする形があります。そこでいろんなピザ職人と仕事することで勉強させてもらいました。最初は定休日なしで毎日働きました。ピザ生地を伸ばすピッツァイオーロとピザを焼くフォルナイオがペアとなって1枚のピザを完成させるのですが、最初の店舗では自分はピッツァイオーロとしてまったくのど素人だったにも関わらず、ペアを組んだアントニオは文句も言わずパートナーとして組んでくれていました。
初めて休みをもらった日、アントニオが一人で働くその店に食事に行きました。すると自分とペアを組んで提供していたピザよりはるかに見た目も味も美味しいピザが出てきたのです。ショックでした。同じ生地、同じ窯、同じ材料なのに、仕事をする人が違うだけでまったく違うものになる。ピザは面白いんです。使う薪がどれくらいの太さでどれくらいの乾燥具合か、どの位置に配置するかによって熱のまわり方が全く違う。その面白さは今でも変わらないし、アントニオが焼いたピザを食べて再確認し、ここでまた没頭しました。
「Fratelli La Bufala(フラテッリ ラ ブッファラ)」には2年間いて、4店舗を経験させてもらいました。最後の4店舗目で、ピッツァイオーロとしてメイン職人に立候補しました。海外では自分で給与交渉や職場交渉をしないと何も進まないのです。日本人がメイン職人になった物珍しさと「Fratelli La Bufala(フラテッリ ラ ブッファラ)」の知名度から、現地の新聞に掲載されたりもしました。ピザ職人としてはこれからが面白いとき、といったところでした。オーナーが労働ビザの手続きをしてくれることになり、これは飲食店勤務の外国人としては本当に珍しいことでイタリア人と同様の待遇を受けられるチャンスでした。自分としてはこのままイタリアに永住することも視野に入れて社員契約を進めいている最中にまた大きな転機が訪れたのです。「ナプレ」の香坂さんが2店舗目の契約を済ませたのだがやる人がいない、というのです。考えに考えた末、日本に戻ることを決意しました。

「ナプレ」2店舗目はいろいろあって、とん挫しました。自分の居場所をなくし、イタリア時代の知人のつてで約3年間東京で転々と働きました。しかし、やはり自分のお店を創りたい、それならば仙台がいい、という想いで仙台に帰ってくることを決意。34歳になっていました。テナントを探しつつ、夜中に棚卸のバイトをしながら生活していました。このときは自動車工場で働いていたような不安感はあまりなく、前向きでいたように覚えています。そうこうしている間に神戸にある老舗ホテル「北野ホテル」からお声がかかりました。ピッツェリアをOPENさせたいので店長をやってほしいというお申し出でした。ただ、自分としてはやはり仙台でお店を創りたいという意向があったため、2年間という契約期間を頂いて雇っていただくことになり、OPEN準備から2年間お世話になることになりました。そこでももろもろありましたが割愛します。
そして、37歳、現在工事中の堤町の店舗の図面を基に自分のお店を模索し始めました。すると今度は勝山館の支配人さんからのお申し出があり、その当時からあるピザ窯とロビーのフリースペースをどうにかして活性化してほしいというご要望をいただきました。間に立ってくださった方のご厚意もあったので、何とか売り上げを上げてお役にたちたいという想いから受けることになりました。2010年でした。
働き始めて1年経った頃、ナポリピザの大会で世界一大きい大会「カプートカップ」という大会に出場することを決意し、戦ってきました。会社からは軍資金として必要経費を出していただくなど、その大会の趣旨も伝えきれていないままでしたがサポートしていただきました。その年は初参戦で30位という結果でしたが、「勝手がわかれば絶対に次は上位に食い込める」と確信して帰ってきました。そして、翌2012年、今度は社長もイタリアに同行してくださり、世界3位という称号を勝ち取ることができました。イタリア人以外の外国人部門では第1位を獲得、大きな自信につながる結果をいただきました。
この賞を獲得したことがきっかけで、2013年8月には勝山館の中にピザのお店を創っていただけることになりました。それが前職の「PIZZARIA PADRINO DEL SHOZAN」です。

自分が勝山館に来た役目は売上を上げること。働き始めた当初は1日6,7枚しか売れていなかったピザは、近隣へのポスティングや黒字にするための活動を思いつく限り行ったことで1年かけて1日50枚のピザを焼くまでになりました。そして、2011年に世界30位を取り「真のナポリピッツァ協会」の認定店の審査に合格したことで1日100枚へと提供数をさらに伸ばすことに成功。2012年、世界3位を取ってからはさらに売り上げを伸ばすことに成功、最終的にはお店を創るところまで貢献することができました。
「PIZZARIA PADRINO DEL SHOZAN」では、たくさんのお客様に愛していただけました。ただ、やはり自分のお店を持ちたいという想いは強く、その後2年でお店を円満退職させていただき、今に至ります。今は10月1日に念願の自分のお店をOPENさせるので、そこに向けて走っている最中です。ここまで応援してくださった勝山館の方々には感謝しています。
飲食を始めたきっかけは自分の中では商売として健全であること、まっとうなことをしてまっとうな収入を得ている職業だということに、一番最初にアルバイトをした居酒屋で気づかされたからです。「何かやることないかな」とふわふわ始めたアルバイトでしたが、間口が広く入りやすかった。一生続けていくこととしては難しさが有るのかもしれませんが、明るい社会に見えたこと、何より楽しかったことがきっかけです。
ただ、自分は飲食人というよりはピザのことしかしらないピザ職人です。
すべての人に当てはまるかはわかりませんが、他の選択肢はあまり考えていませんでした。

2、影響を受けた人
「ナプレ」の当時のオーナーである香坂さんです。
ピザ職人の世界に入るきっかけをくれた人です。
香坂さんはイタリアのナポリで数か月現場に入っていた経験を持った方でした。香坂さんは実は日本語しか話せなかったのですが、単身で海外に行っていたことを知り、自分もイタリアに行けるんだという気持ちにしていただけました。香坂さんを通すと世界がすぐ近くに思えたのを覚えています。
「ピッツェリア デ ナプレ」→HP

3、飲食をやめたいと思ったことは?
ないです。毎日同じことをやっているんですが、今までずっとわからなかったことがふとわかるときがあります。そこに気付くことが楽しいです。

4、飲食をやっていて幸せを感じるときは?
やはり、お客さんが逢いに来たり、食べに来たりしてくれる瞬間ですね。
「PIZZARIA PADRINO DEL SHOZAN」最後の3日間は自分が辞めるからと逢いに来てくださる方もいて、4,5歳の女の子が泣いてくれたりもしたんです。ピザを作ることでお客様にこんなに喜んでもらえて、また逢いに来てくれることが本当に嬉しいし、幸せです。

5、今後の野望は?
自分はピザを作ることしか知らないしやれません。しかし、ピザ職人になろうと思ったことでいろんなことを知りいろんな方に出会えました。「ピッツァイオーロ」という仕事が自分にいろいろなものを与えてくれましたし、この仕事に感謝していますし、プライドも持っています。ですから「ピッツァイオーロ」を1つの職業として認知してもらいたいです。店名を「イル ピッツァイオーロ」にしたのもそのためです。大きくなったらピッツァイオーロになりたいと言ってくれる子供が一人でも増えることが今の希望です。

6、自分が目指す人間像は?
自分を見て「ピッツァイオーロになりたい」と思わせることができる人間でありたいし、そういう仕事をしていきたいです。

7、飲食を始めたころ(独立したころ)の自分へ声をかけるとしたら?
ふわふわするな、腹をくくって頑張れ。自分がやった分だけ結果は出るよ、結果が出ていないのはまだ足りないからだ。

8、飲食業で大切なことは?
相手に喜んでもらいたいと思う気持ちだと思います。あとは、自分自身にやりたいことがある、ということです。
目的を持つこと、目的があることで大きく変わってきますから。

9、好きな本は?
司馬遼太郎:「坂の上の雲」→Amazon
イタリアで暮らしているときに日本語に飢えて読んでいました。日本人であるプライドを忘れずにいさせてくれた大事な本です。
「日本人なのになぜ寿司じゃないの?なぜピザなの?」とイタリアではよく言われていたんですが、それに反論できなかったんです。そういう時によく読んでいました。

10、フードスタジアム東北に期待することは?
職業としての飲食離れを止めてほしい。よく給料が低いとか時間が長いとか言っている飲食人を見かけますが、誰でもできる仕事をしているうちは、そんなことは当たり前だと思うのです。それは飲食じゃなくても他の仕事でも同様だと思います。一人前にならなければいけません。
飲食業は頑張り次第では夢のある仕事だ、ということをみんなに知ってもらえれば間口は広いし、優しく受け入れてくれる職業です。あとは自分次第だ、と思います。

11、次にバトンを渡したい人は?
長谷川正志さん。
「バーグレイハウンド」「ノッテ カルマ」のオーナーさんです。
自分が「ナプレ」で働き始めた25歳の頃に長谷川さんも別のバーで働き始めたばかりで、当時いろいろ話し合った友人です。

12、読者へ一言
地下鉄で行けるイタリア、ナポリが10月にできます。本物のナポリピザをぜひ一度食べに来てください。
 →FB

(取材=澤田てい子)

インタビュー一覧トップへ

Copyright © 2015 FOOD STADIUM TOHOKU INC. All Rights Reserved.